交響曲篇 ──生誕250年に向けて | 21世紀のベートーヴェン 第1回

text:平野 昭

【序文】
初演以来、その作品が常に演奏会のレパートリーとして定着し受容(鑑賞)され続けている音楽はそれほど多くない。さまざまな理由や事情があるが、19世紀までの演奏会、とりわけオーケストラ演奏会の社会的役割がレコード録音や放送メディアの登場する20世紀以降と全く異なっていたからだ。作曲家が自己の収入のために主催する受益コンサート、いわゆる「アカデミー」にしても劇場やコンサートホールが開催するコンサートにしても、第一の目的は新作発表の場であった。音楽を鑑賞するとは即ち生の演奏を聴くということであった時代において、新作初演は聴衆の最大の関心事であった。

また、初版譜出版前に行われる初演が、作曲家にとっては掛け替えのない商品プレゼンテーションであり、作曲家の力量アピールの場となっていた。そうした時代にあって、過去の作品は、いかに優れたものであっても(忘れ去られる、とは言わないまでも)置き去りにされてしまう運命にあった。だが、ベートーヴェンの交響曲は初演以来、今日に至るまで全9曲が演奏され続けている特別な音楽と言えるだろう。

だからベートーヴェンの交響曲の演奏史を繙くことは作品受容と同時に作品解釈の歴史や演奏様式の変遷をたどることにもなるだろう。1913年11月10日に録音されたアルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィルによる「運命」の世界初録音から1世紀以上を経た現在までに残された膨大な演奏録音を比較するのは興味深い課題でもあろう、が、これはいつか別の機会にまとめてみたい。

今回の連載は、来年末、2020年12月16日に生誕250年を迎えるベートーヴェンの音楽を様々な観点から見直してみようという趣旨だ。先ず、交響曲からはじめて協奏曲や室内楽そしてピアノ・ソナタなどさまざまなジャンルの作品をとりあげてゆきたい。体系的にというわけではないが、ベートーヴェンの創作姿勢あるいは創作理念に垣間見られる革新性の追究を年代にそって概観してゆこう。というわけで第1回は「交響曲第1番ハ長調op.21」を取り上げるのだが、交響曲の作曲に至るまでの前史をもう少し見ておこう。

モーツァルトが他界してほぼ1年後の1792年11月にハイドンのもとでの作曲修行という目的でウィーンに進出する。ボンの宮廷楽士という身分での1年間の給費留学であった。しかし、ベートーヴェンは帰国せずにウィーンで活躍することになる。第一次英国滞在から帰ってきた師ハイドンのもとにはロンドンで初演された第92番から第98番までの交響曲があった。

また、1794年1月からの第二次渡英のために準備していた第99番はまさにベートーヴェンへの作曲レッスンと同時期に作曲していたものだ。2度目のロンドン滞在から1795年7月に帰国したハイドンのもとで、師が持ち帰った第100番から最後の交響曲第104番までの手書浄書譜をベートーヴェンが見たであろうことは容易に推察できる。そして、モーツァルト最後の交響曲3曲も作曲家没後のウィーンで何度か演奏されており、何らかの形でパート譜なり編曲譜を見る機会もあったと思われる(モーツァルトの交響曲の楽譜は18世紀中殆ど出版されていなかった、というより、この時期の楽譜出版の多くは室内楽やピアノ曲など小編成作品に限られていた)。ウィーン進出後ピアニストとして名声を博す間に偉大な二人の先人の交響曲を研究しながら、ベートーヴェンは自分の交響曲のスタイルを模索していたのである。

多くの作曲家たちが1800年前後に作曲した交響曲のほとんどがハイドンやモーツァルトのスタイルを踏襲した作品であった。もちろん、作曲家の個性も地域の特性も認められるが、それ以上に時代と地域による流行のスタイルが優位を占めていた。それは受容(聴かれて親しまれる)のために必要なことであっただろう。しかし、ベートーヴェンは違ったのだ。伝統様式を無批判に踏襲することを最も嫌う性格の持ち主であった。ピアニストから作曲家へと人生プランを立て直したベートーヴェンが先ず念頭に置いたのはモーツァルトやハイドンとは全く異なるスタイルの交響曲であった。

出典:Ludwig van Beethovens Werke, Serie 1: Symphonien, Nr.1 Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1862.
小節番号のみ編集部で追加


第1回 交響曲第1番
──いきなり革新性をアピールする野心作──

ベートーヴェンの交響曲創作全9曲を年齢でみると、第1番から第8番までが29歳から42歳までの13年間に書かれ、最後の第9番が53歳の作品だ。今ここで声楽付きの「第九」を抜きにして考えると、ほぼ30代を中心に書かれた8曲を創作期で区分するのは強引で困難なことに思える。それでも交響曲第1番や第2番にはハイドンやモーツァルトの影響が色濃く残った古典的な様式の作品だ、とか、交響曲の初期作品だ、といった短絡的な見方が広くまかり通っているように思われる。それは全くの見当はずれだ。

1800年、年明け早々に完成させた交響曲第1番は極めて大胆な内容のアダージョ・モルトの緩徐序奏部で開始する。第1楽章を緩徐序奏部で開始する書法はハイドンにもモーツァルトにもあるが、極言すれば、先人二人の序奏部とベートーヴェンの序奏部は本質的に別次元のものだ。もしかしたらハイドンの緩徐序奏部は無くても良かったかもしれない。アレグロ主部の主題呈示から開始しても作品は成り立つと思う。つまり、序奏部はあってもなくても第1楽章本体主部のソナタ形式の構成に重大な影響を与えるようなものではない。ところがベートーヴェンの交響曲第1番のわずか12小節のアダージョ・モルトは、第13小節からのアレグロ・コン・ブリオによる主部主題の性格を決定づけるために必要不可欠な機能を果たしているのだ。

1800年4月2日(水)ブルク劇場18時30分開演の演奏会の聴衆の耳になってみよう。7演目の最後に演奏されたハ長調交響曲。開始冒頭のトゥッティの和音を耳にした瞬間、聴衆の多くが「えっ?」と心中思ったに違いない。いきなりヘ長調の属七の和音なのだ。予期するように誘導されて次はヘ長調の主和音、つまり、ハ長調の下属和音だ。そしてハ長調の属七、今度はハ長調主和音だろうと思うと、裏切られて偽終止、つまり、イ短調主和音が響く。次はいわゆるドッペルドミナントと呼ばれる属調の属和音という具合だ。この12小節では主調が確立する全終止はなく、調の浮遊が不可避的に緊張感を増幅させているのだ。そして、第11小節でト長調の1オクターヴに及ぶ音階上行が現れ、その頂点であるト音を属音とするハ長調の下降音階を4連前打音的に奏して主部に突入する。その瞬間にまごうことない真正なハ長調の響き(主題)が立ち上がり、緊張から解放された晴れ晴れとした姿で第1主題が呈示されるのである。が、これだけではないのだ。この5小節の主題、第17小節で主音に解決すると、この引き伸ばされた主音が第18小節で半音高められ(嬰ハ音=ニ調の導音)、第19小節から主題がニ短調で再提示(確保)される。モーツァルトの最後の交響曲(第41番)ハ長調K.551「ジュピター」主題との関連を思わせるこの主題とその呈示法及び再提示法は、実は、同時に作曲されるバレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲でも全く同じものがみられるのだ。次回、さらに掘り下げてみよう。


Profile
平野 昭(Akira Hirano/音楽学・音楽評論)

1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽研究科音楽学専攻修了。桐朋学園大学特任教授、東京音楽大学大学院及び日本大学芸術学部非常勤講師。西洋音楽史学および音楽美学、音楽社会学を研究領域として音楽評論分野でも活動。専門研究は18世紀および19世紀の音楽様式論、とりわけ古典派およびロマン派作品の様式研究。音楽評論分野では「毎日新聞」等での演奏会評、「レコード芸術」「音楽の友」等々の紙誌への執筆、NHK音楽番組への出演など。
主要編著訳書:『音楽キーワード事典』(春秋社)、『ベートーヴェン』(新潮文庫)、『鳴り響く思想:現代のベートーヴェン像』(東京書籍)など。