ヴィットリオ・グリゴーロ(テノール)| いま聴いておきたい歌手たち 第7回

text:香原斗志(オペラ評論家)

上等の樽で熟成した上質のワイン

味つけが濃くて、食が進まないどころか、食後も異様にのどが渇いたり、胃がもたれたりする料理がある。一方で、同じくらい濃いのにいくらでも食べられて、胃もたれと無縁の料理もある。前者は素材が悪いか、料理人の腕が悪いか、添加物だらけか、あるいは、それら複数の組み合わせだろう。後者は、腕のいい料理人がとびきりの素材を使い、添加物なども使わずに調理したものに違いない。

話の主役は、もちろん、ヴィットリオ・グリゴーロである。イタリアのテノール歌手の話題なのに濃い料理の話を前に振ったのは、彼の歌唱が濃いから。時に濃すぎるほどなので誤解を招くこともあるが、グリゴーロの歌は、これ以上ないすぐれた素材を、最高峰の腕であつらえた料理にたとえられる。それは、最良のぶどうを最高の状態で熟成させたワインと言ってもいい。実際、昨年インタビューした際、本人が「私が何年もかけて獲得したテクニックはいま、上等な樽で熟成した上質のワインのような状態にあります」と語っていた。

C)Jason Bell

オペラの舞台でも、リサイタルでも、いつも濃い。舞台上のパフォーマンスも派手で、それに呼応して強い感情を声に乗せ、歌のテンポを伸縮させたりもする。そんなことをすれば、たいていの歌手は声が続かないし、歌のフォームも崩れてしまうが、グリゴーロばかりは、そんな歌い方をしながら、むしろ余裕を感じさせる。

彼の声を初めて生で聴いたのは2012年9月、ミラノのスカラ座での《ラ・ボエーム》だった。正直に言えば、それまで私はグリゴーロに先入観を抱いていた。2006年にポップスのアルバムを発表し、イタリアではポップス歌手としても有名であったため、“色物”ではないかと思っていたのだ。

しかし、それはとんでもない誤解だった。グリゴーロは声が美しいだけでなく、イタリアの正統的な発声を完璧に身につけている数少ないテノールなのだと、すぐ再認識させられた。正しい呼吸法に支えられていればこその濃密で厚い声。マスケラを通した理想的な響き。その声をピアニッシモからフォルティッシモまで変幻自在に操る万全のテクニックがあり、フレージングに思いのままに色彩や艶、香りを加え、ロドルフォという役柄に命を与えていた。

フランス・オペラで無敵の表現力

2015年4月、東京で行われたリサイタルでは、グリゴーロの全貌が明らかになった。繊細で官能的なメッザヴォーチェ(声量を半分にしてやわらかく歌うこと)で歌いはじめ、少しずつクレッシェンドさせて音圧を上げ、濃密な音を輝かしく響かせたあとで細やかにリタルダンドさせる。そんな離れ業を余裕綽々でやり遂げる。あるいは、スピントの声でどんなに歌い続けても、声が少しも疲れないばかりか、聴き手の耳もまるで疲れない。

フレージングが感情過多で、ルバートしすぎではないかと思う曲もあったが、そんなものはご愛嬌だ。濃密なフレージングやルバート自体が離れ業なのである。このとき、私が最も感銘を受けたのは、ドニゼッティ《アルバ公爵》のアリア〈清らかで美しい天使〉だった。声の輝きも、質感も、洗練されたフレージングの品位と美しさも、ロマンティックな情感も、これ以上に理想的に歌われようがないとさえ思われた。

「パヴァロッティの再来」と呼ばれるテノールは何人かいるが、なかでもグリゴーロは別格だ。13歳のとき、パヴァロッティがカヴァラドッシを歌った《トスカ》に羊飼いの少年役で出演し、自身が《ラ・ボエーム》にデビューする前にも、亡くなる直前のパヴァロッティの薫陶を受けた、という縁がある。それに、上記したグリゴーロのテクニックは、若きパヴァロッティと重なるが、40代からのパヴァロッティには失われていた。その意味では、パヴァロッティを超えるとさえ言えるだろう。

そして、2018年12月の東京でのコンサートで披露されたのが、フランス・オペラへの適性である。グノーやマスネなど、ロマン主義以降のフランス・オペラのリリックでやわらかい旋律をグリゴーロほど魅力的に歌える歌手は、いまほかにいない。それはMETライブビューイングなどでも知られていたが、それをまとめて痛感させられた。

《ロメオとジュリエット》の「ああ、太陽よ、昇れ」では、若々しい恋情に青春特有の切なさを漂わせ、《マノン》の「夢の歌」では、夢に浸りながらも少し先の破綻の予感を滲ませ、《ウェルテル》の「春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか」は、聴き手が涙を禁じえないほど悲痛に歌われた。加えて、際立つフランス語の美しさ。そしてこの9月には、英国ロイヤル・オペラの日本公演で《ファウスト》のタイトルロールを歌う。無敵の表現力で、聴き手を陶酔の境地にいざなってくれることだろう。

英国ロイヤル・オペラ2019日本公演会見より

Information
英国ロイヤル・オペラ2019年日本公演
《ファウスト》
2019.9/12(木)18:30、9/15(日)15:00、9/18(水)15:00 東京文化会館
9/22(日)15:00 神奈川県民ホール
問:NBSチケットセンター03-3791-8888 
https://www.nbs.or.jp/stages/2019/roh/


profile
香原斗志 (Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。