2016年、新日本フィルの音楽監督に就任して、今年9月で4シーズン目を迎えた上岡敏之さん。指揮者になる前は、なんと帝国ホテルのホテルマンだったという珍しい経歴の持ち主ですが、ドイツ各地の歌劇場で着実にキャリアを積み、職人肌とも言える仕事ぶりとその後の活躍は周知のとおり。現在は、新日本フィルのほかにコペンハーゲン・フィル首席指揮者という重要ポストも務めるかたわら、ザールブリュッケン音楽大学で後進の指導にもあたっています。そんな上岡さんに、これまでの指揮者人生をたっぷりと振り返っていただきました。
interview & text:柴田克彦
photos:藤本史昭
日本流の指揮法に馴染めず落ちこぼれだった学生時代
──まずは音楽との出会いをお話いただけますか?
最初は茅ヶ崎の幼稚園の先生のピアノです。とてもうまくて、こんなに素晴らしいものが世の中にあるのかと思いました。これが5歳の頃。実際に触れたのは幼稚園の足踏みオルガンが最初でしたが、近所にはピアノを習っている子が大勢いて、その家や学校でピアノも弾いていました。
小中高は普通校に通いましたが、ピアノは習っていました。とはいえ、日本的に「習った」というよりも、ドイツ語で言うspielen、英語で言うplayですね。あと高校時代は2年間合唱部に入っていました。でもあまり歌えないので、おもにピアノを弾き、たまに指揮もしていました。
──その状況から東京藝大の指揮科に入られたのですね?
子供の頃一番なりたかったのは作曲家でしたが、高校に入る頃には好きな音楽で生活できたらいいなと思っていました。ただ漠然としていて、オーケストラ音楽やオペラに興味があったし、作曲も勉強したかったので、それらの一環として指揮を選んだような気がします。藝大の指揮科を目指して勉強したのも高校最後の1年くらい。当時の藝大指揮科の金子登先生のレッスンなどを受けました。
──藝大時代の思い出は?
金子先生はちょうど退官されたので、ドイツ人のマルティン・メルツァー先生にあたったのですが、これが幸いでした。ものすごく良い先生で、振ること自体には全く興味がなく、オペラをはじめとする音楽の中身を色々教えてくれました。それに教授の部屋のグランドピアノでよく練習していました。先生から「音楽家になりたいのなら、バッハの平均律もベートーヴェンのソナタも全部知っていないといけない」と言われたので、全部勉強しましたよ。あと良かったのがフランス人のアンリエット・ピュイグ=ロジェ先生。スコアリーディングの集団レッスンで色々なことを話されたので、とても勉強になりました。
──いわゆる日本流の“指揮法”に触れることはなかったのですね?
振ることに関して、あまり意識がないんです。自分の生徒にもよく言っているのですが、指揮も話すのと同じで、人に何かを伝える作業ですから、手がどこにあっても関係ない。ところが日本人の先生に「それじゃテンポがわからない」とか散々言われました。テンポは一緒に呼吸をすれば合うだろうと昔から考えていて、未だに変わってないんですよ。でも当時の先生方には理解されなかった。
──それが進路にも影響しましたか?
おかげで卒業する頃には、アマチュア・オーケストラの仕事もないぐらい落ちこぼれていました。そこでもう諦めようと思って、帝国ホテルに準社員として就職し、ちゃんと制服を着て、1年弱フロントを担当していました。仕事はとても好きでしたね。良い人たちに囲まれていて、彼らとは今でもコンタクトがありますよ。ただ、同じ時期に神奈川県のロータリーの奨学金の試験も受けていて、1984年からハンブルク音楽大学に行くことになりました。
ドイツの歌劇場でさまざまなポジションを渡り歩く
──そこでの状況はいかがでしたか?
日本とは全然違って、「あなたはピアノも弾けるし、これもあれもできて」とすごく評価されました。学生寮に住んでいたので、皆と一緒に室内楽をやったり、リートの伴奏をしたり、ソロを弾いたりして、楽しかったですね。日本にいる時は、先生の部屋でピアノ弾いていると、「指揮者はピアノを弾くもんじゃない」「棒で勉強しろ」と散々言われましたからね。
しかも、2年目から大学で副科のピアノ、室内楽、リートの伴奏を教えていました。3年目には教授を打診されたのですが、同じ時期にキール市立劇場のコレペティトールの話が来たので、そちらに行きました。父親が映像プロデューサーだったせいか、舞台物などのヴィジョンに興味があったんです。
──それからキール市立劇場、エッセン歌劇場(市立アールト劇場)を経て、1996年から2004年まではヴィースバーデンのヘッセン州立歌劇場の音楽監督、1997年から2006年まではヘルフォルトの北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務められました。
キールでは指揮もしていたのですが、その後通常の過程を全部飛ばして、1992年にエッセン歌劇場の第1指揮者になりました。エッセンはある程度大きな歌劇場で、年間100〜120公演振っていましたから、そこでの4年間は良い経験になりました。
そのうちに、ヴィースバーデンの歌劇場の《蝶々夫人》で指揮者が降りてしまったときに、助けるために行ったら、「チーフがいなくて困っているのですが、いかがですか?」と言われて。エッセンでの仕事は幸せだったし、仲間達と別れるのは辛いなと思いましたが、初めてのチーフのポジションなので悩んだ末に移りました。北西ドイツ・フィルとは結構うまくいって、現在まで付き合いの長いオーケストラになりましたね。ただ、その時から今まで、ポジションが2つ、3つという人生が続いています。
──日本人がドイツの歌劇場でポジションを持つのは大変ではないですか?
恵まれていたのは、キールもエッセンもオーケストラがすべてを僕のためにやってくれたこと。西欧にはオーケストラと指揮者が対立するというようなことはあまりないんです。日本の場合、ひとつの職業としての指揮者の役割がきちんと認識されていない面もあるのですが、向こうでは指揮者は必要不可欠なものという感覚で、別に「その人が偉い」とは誰も思っていないし、オーケストラにおける一職業としてちゃんと確立されているんです。
──上岡さんは以前から「オペラは演奏会形式では意味がない」と仰っていましたが、指揮者の側から見たオペラを振る面白さ、苦労はどんな部分でしょう?
色々な違った分野の人と一つのものを作り上げていくのが魅力ですね。演出家以外にも接点はたくさんあって、色んな分野が一つになっていくのが難しさでもあり魅力でもあります。最後に出来上がるものは、お客さんが見ている「舞台」であり、裏は見えない。でも、裏をきちんとしておかないと出来てこない。そこが魅力ですね。
僕の生徒は就職率100%! 工事現場にも行く!
──2004年からはザールブリュッケン音楽大学の指揮科の正教授でいらっしゃいますね。
はい、なので今もザールブリュッケンに住んでいます。ただ、教授といっても、僕の場合は音楽を生徒と一緒に作っていくやり方ですので、スターになりたい子は入学試験の時点でとらない。生徒ときちんと話し、ちゃんと就職できる子を作ります。だから僕の生徒は就職率100%で、必ず歌劇場に入ります。
──2004年にはヴッパータール市の音楽総監督およびヴッパータール交響楽団の首席指揮者に就任され、2009年からはザールラント州立歌劇場(ザールブリュッケン)の音楽総監督を務められましたね。
ヴッパータールからは政治家に強引に誘われました。そこらへんは日本と違うんですよ。政治家の中にもオペラファンなどがいて、文化が根付いていますから。就任後はもう毎日喧嘩していたような感じ。一応Aクラスの歌劇場だし、変な人はいないので、喧嘩というよりもドイツだから理屈で理解するまでディスカッションするわけです。そこではコンサートも発展させましたね。1ヵ月に1日だったのを2日にし、若い人たちのコンサートも増やしました。
ザールブリュッケンの方は、ザールラント州自体が小さくて音楽家に給料が払えないから、大学教授にやらせれば良いという話になって呼ばれたんです。でも、そこもまた楽しかった。すごくのんびりしていて、ドイツよりもフランス的でいい加減。それはそれで雰囲気が良くて幸せでした。
ただヴッパータールとザールブリュッケンは350kmくらい離れているので、週3回、夜中に車で移動していました。欲張りですよね。本来ポストは一つで十分ですし、大学教授だって一つの職業として成り立っているもの。何もここまで欲張ってやる必要はないんですけどね。
──ヴッパータールでは、2014〜16年にインテンダント(総裁)も務められました。日本人には稀な大役ですね。
あんな仕事は二度としたくない(笑)。音楽をやっている暇などないんですから。例えばトンネル工事。盆地ゆえにトンネル工事をされるとお客さんが他から来られなくなってしまうので、ヘルメット被って現場に行っていました。それから、緊急で演目を変えたり、公演日を変えたり、キャンセルしたり……。政治家など会わなければいけない人も多いし、楽譜を読む時間はゼロでしたね。新日本フィルからのオファーが抜け出すチャンスになって、本当に良かったです。
良好な関係を築いている新日本フィル、そしてコペンハーゲン・フィル
──この間、日本での活動は?
日本に最初に来たのは読響で1998年。その後は2年に一度くらい読響に来ていました。あとは新国立劇場の「椿姫」、日生劇場の「魔笛」をやって、日本フィルや新日本フィルにも客演しました。
──2016年から現在に至るまで、コペンハーゲン・フィルの首席指揮者と新日本フィルの音楽監督を兼務しておられます。まずはコペンハーゲンのポストはいかがですか?
2回客演した程度でオファーが来たのですが、最初からうまくいきました。あんなに相性が良いオケは初めてです。楽員同士が仲が良くて、真面目で、貧富の差がないスカンジナビアならではのバランス感覚をもったオーケストラですね。振るのは年5〜6プログラムですし、ドイツから近いので苦になりません。
──そして新日本フィル。音楽監督のオファーを受けて、日本に行こうと思った理由は何だったのでしょうか?
インテンダントの職を早く終わりにしたかったこともありますが、日本人なのに、それまで日本のオーケストラとほとんど関係を持ってこなかったので、1回自分の国でもチーフのポジションを、と思いました。
──新日本フィルでは5年契約の4年目に入ったところですね。成果はいかがですか?
メンバーそれぞれが自分の音の最大限と最小限を見極めるようになり、目指す“大きな室内楽”が徐々に可能になってきました。自発性も生まれてきましたし、今は変わりつつあるいい時期だと感じています。
ピアノが弾きたい!
──指揮者を志そうと思った頃に、どういう指揮者、演奏家に憧れていましたか?
カラヤン、ベームなど凄いと思った人は何人もいますが、アイドル的な憧れはあまりなかったですね。ただ今になって、自分に近いのはショルティやジョージ・セルみたいなタイプのような気がしています。
──では、お好きな作曲家は?
ショパン。音楽自体が繊細で、ピアノだけで全てが完結していますから。
──ピアノは今どういう存在でしょうか?
弾きたくて仕方ないんですけど、この生活を変えなきゃいけない。ピアノの前には何十時間も座ってられるんですよ。今もスコアリーディングでは弾いていますが、ピアノ曲をちゃんと練習したいですね。でもなかなか時間が取れなくて……。本当は、歌劇場が終わったらもっと時間があると思ったのですが、甘く見てましたね。
──最後に今後やりたいことは?
ピアノも弾きたいし、作曲もしたいし、絵も描きたいし、詩も書きたいし、散歩もしたいし、もう少しプライベートな生活を充実させたい。よく指揮者は60過ぎてからとか言いますが、やりたい人がやればいいんです。これだけ仕事をしたし、もうすぐ60過ぎるし、最後は朝からシャンパンを飲むような生活をしたいですね(笑)。
──長時間、どうもありがとうございました。
(取材協力:新日本フィルハーモニー交響楽団/すみだトリフォニーホール)
profile
東京藝術大学でマルティン・メルツァー、ハンブルク音楽大学でクラウスペーター・ザイベルの各氏に師事。キール市立劇場ソロ・コレペティトール及びカペルマイスター、ヘッセン州立歌劇場音楽総監督、北西ドイツ・フィル首席指揮者、ザールランド州立歌劇場音楽総監督、ヴッパータール市立歌劇場インテンダント兼音楽総監督等を歴任。2016年、新日本フィル音楽監督に就任。コペンハーゲン・フィル首席指揮者、ザールブリュッケン音楽大学指揮科正教授も務める。第15回渡邉曉雄音楽基金 音楽賞・特別賞、第13回齋藤秀雄メモリアル基金賞受賞。
Information
新日本フィルハーモニー交響楽団
第615回定期演奏会 トパーズ〈トリフォニー・シリーズ〉
2020.1/17(金)19:15、1/18(土)14:00 すみだトリフォニーホール
第617回定期演奏会 ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉
2020.3/19(木)19:00 サントリーホール
特別演奏会 サファイア〈横浜みなとみらいシリーズ〉第11回
2020.3/21(土)14:00 横浜みなとみらいホール
問:新日本フィル・チケットボックス03-5610-3815
https://www.njp.or.jp/