チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」その2(全3回)| 名曲レゾンデートル〜“傑作”の理由 Vol.4

text:城所孝吉

しかしメック夫人自身は、コテックに対してあまり良い感情を持っていなかった。というのはコテックは、メック夫人の屋敷で(男性ではなく、女性をめぐる)様々な恋愛沙汰を起こし、彼女はその女たらしぶりに顔をしかめていたからである。また彼女は、チャイコフスキーがコテックに執心していることに、嫉妬していたと思われる。なぜなら、彼が家族以外で最も熱心に庇護した人物こそがコテックだったからである。チャイコフスキーは1877年末、メック夫人に、ベルリンでの生活の糧がなかったコテックを援助するように頼む手紙を送っている(12月5日付け/出典:チャイコフスキー作品全集 第6巻 文書番号251)。彼女がその願いを聞き入れなかったことは、言うまでもない。

チャイコフスキー

当時チャイコフスキーは、コテックに金を与えて生活できるようにしていたが、彼が他人に依存して生きていることに対して、複雑な感情を抱いていた。それはコテックが、あからさまに金をせがむようになってきたからだけではない。チャイコフスキー自身が、メック夫人から年金をもらって生活していたためである。

「私に何が起こっているか分かりますか。他人の金に依存して生きるという点では、私こそが彼にとって悪い手本なのです」
(1878年1月20日付けの弟モデストへの手紙/出典:同第7巻 31頁。文書番号721)

「コテックのことを思うと、私は自分自身について考えを及ばさずにはいられません。彼をとても愛していますが、その気持ちは以前とは違います。彼が、他人に依存することに慣れはじめているのを見ると、不快な思いになるのです。それゆえ内心で葛藤するのですが、彼は私の気持ちが変わったことに気が付いて、それを指摘します。でも私は、本当の理由を言うことができないので、自分に腹を立てるのです」
(1878年3月20日付けの弟アナトリへの手紙/出典:同第7巻157頁。文書番号779)

一方コテックは、当時22歳という年齢からして無理もないが、チャイコフスキーだけを見つめていたわけではなかった。メック夫人邸での一件が示す通り、彼は女性にも関心があり、チャイコフスキーの眼前でも、異性に相当色目を使ったようなのである。

「一番頭に来るのは、彼の途方もない女性への欲求です。彼が話すことと言ったら、すべて……(おそらく女性の胸や腰のこと)についてです」
「彼は、まさに女ったらしとしか言いようがありません」
(1879年1月4日と7日付けの弟アナトリとモデストへの手紙/出典:同第7巻562および576頁。文書番号1036および1040)

おそらく彼は、バイセクシャルだったのだろう。それどころか、完全にヘテロセクシャルで、チャイコフスキーに関しては、彼の恋心を利用していた可能性もある。そもそも、両者が肉体関係を持っていたことを証明する手紙等は存在しない。それゆえドイツの研究者のなかには、「一線は越えていなかった」と主張する人もいる。

その事実関係はともかく、断言できるのは、チャイコフスキーがコテックに振り回されていた、ということである。作曲家は、彼に怒りや嫌悪感を感じると同時に、彼を愛していることを認めざるを得ず、愛情と困惑の間で行ったり来たりしていた。しかしその苦しみと喜びは、チャイコフスキーのなかで一種のダイナミズムを生み出し、彼の精神生活に強い刺激を与えた。間違いないのは、このコテックとの出会いが、チャイコフスキーの人生において、最も重要な恋愛のひとつだったということである。彼が、特定の男性に本格的な恋心を抱いた例は、コテックとの別離以降は、(甥ヴラジミール・ダヴィドフ=通称ボブを除いては)ほとんど見当たらない。そして(これが重要なのだが)その恋愛の高揚は、彼の音楽に決定的な影響を及ぼした。それがまさに作品に昇華されているのが、他ならぬヴァイオリン協奏曲なのである。

(その3に続く)

その1

Profile
城所孝吉(Takayoshi Kidokoro)

1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。1990年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』などの雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活躍。