ダヴィデ・ルチアーノ(バリトン)| いま聴いておきたい歌手たち 第12回 

text:香原斗志(オペラ評論家)

スターダムをのし上がりつつあるバリトンの大器

20世紀までは、バリトンなら彼だ、と太鼓判を押せる歌手がいつも、それも複数いたように思うが、ここしばらくの間、20世紀の生き残りであるような大御所を除くと、絶対的な指標になるようなバリトンがいなかったように思う。ダヴィデ・ルチアーノこそは、久々に現れた大器というべきだろう。

2017年8月、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)で、《試金石》のマクロービオ役を歌った際、指揮をしたダニエーレ・ルスティオーニに「注目すべき歌手はだれか」と聞くと、即座に返ってきた答えが「ダヴィデ・ルチアーノ!」だった。翌18年のROFでは《セビーリャの理髪師》に出演し、これは記憶に深く刻まれるフィガロだった。

彼の声は艶やかで、輝かしく、濃密で、音圧が高い。そして黒光りするような濃厚な声が自然と、快活に湧き出るのだ。南イタリアの強い日差しを浴びて育ったぶどうから作られた、果実味が豊かだが深く、複雑な味の上等な赤ワインとでもいえばいいだろうか。しかも、音域がきわめて広いうえに、あらゆる音域で性質が一定しているから、音楽が映えることこのうえない。ロッシーニの歌唱に必要な、連なる小さな音符を敏捷に駆けぬけるアジリタも、非常にシャープに歌いこなす。

声同様に身体の動作も快活で、だから歌にも表情が加わるという好循環が起きる。視覚的なインパクトも強く、私の友人は「オペラ界の海老蔵」と呼んだが、実際、歌舞伎で見得を切るような動きをし、目力が異常なほど強い。まさか、本人が歌舞伎役者を意識しているわけではなかろうが、インタビューした際、左肩に入れたタトゥーを見せてくれた。「日本には行ったことがないけど、歌舞伎が好きだから」。そこには歌舞伎役者の顔が彫られていた。

19年にROFで歌った《とてつもない誤解》のブラリッキオ役も、コミカルな表現が堂に入って秀逸だったが、注目すべきは最近の活躍の広がりである。メトロポリタン歌劇場(MET)では、18年1月に《愛の妙薬》のベルコーレ、同年9月に《ラ・ボエーム》のショナールを歌い、今年1月にはバイエルン州立歌劇場で《ラ・ボエーム》のマルチェッロ。9月にはベルコーレでミラノ・スカラ座にデビュー。そして20年7月には、ザルツブルク音楽祭で《ドン・ジョヴァンニ》のタイトルロールである。まだ30歳を少し超えた年齢にして、一気にスターダムにのし上がってきた感がある。

ダヴィデ・ルチアーノ(前列右から2番目)
ニュヨーク・メトロポリタン歌劇場《愛の妙薬》公演(2018)より
C)Karen Almond/Metropolitan Opera

ベルカントを武器にヴェルディやプッチーニも

だが、19歳になるまで、オペラの「オ」の字も知らなかったという。生まれは南イタリアのナポリ近郊のヴェネベントで、

「父は歌手でナポリ民謡を歌っていて、祖父もセレナードを歌っていました。僕にも父や祖父のような声があることに気づいて勉強し、ナポリ民謡やポピュラー音楽を歌っていましたが、きちんと勉強したくて、19歳で音楽院に入りました。でも、『オペラってなに?』というくらいオペラを知らず、1年ほど勉強して、ナポリのサン・カルロ劇場に初めて行きました。そこで生まれて初めて観たオペラがモーツァルトの《後宮からの逃走》で、感動して泣いてしまいました。こうしてオペラに惚れ込んでしまったのです」

スターの誕生秘話が英才教育や血の滲むような努力と無縁なのは、カンターレの国でありオペラ発祥の国であるイタリアならではであろう。

「出会った先生はロッシーニが大好きで、ロッシーニの勉強を始めました。先生は高名な批評家で、マルティーナ・フランカのアカデミーの先生でもあったチェーザレ・チェレッティの弟子。僕はまだオペラをよく知らないまま、こうしてベルカントの勉強をはじめたので、自然にベルカント歌いになりました。正しい方法でエレガントに表現するのが好きで、大げさな歌唱は好きではありません。ロッシーニのブッファも喜劇的に大げさに表現するのは簡単で、そのほうが笑いもとれますが、僕はベルカントのエレガンスを維持するように意識しています」

12年にはペーザロのロッシーニ・アカデミーで学び、以後、持ち前の押し出しの強い声を知的にコントロールし、一流歌劇場を次々と席巻している。ちなみに演技は「イタリアの過去の偉大な俳優の映画を観て学んだ」そうだ。夢は「ROFで《ギヨーム・テル》のタイトルロールを歌うこと」だと語るが、同時に、ヴェルディやプッチーニのドラマティックな役に進出する日も近い。

「2021年には《ドン・カルロ》にデビューするし、22年にはMETで《蝶々夫人》のシャープレスを歌います。でも、ヴェルディやヴェリズモと向き合うときは、いつもベルカントに帰るんだ、ベルカント歌いであることが、なに歌う際にも助けになるんだ、と考えています。どんな歌手も強い音は出せますが、聴衆の心を奪うには、豊かな表情やピアノが必要だからです」


profile
香原斗志 (Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。