エリーナ・ガランチャ(メゾソプラノ)| いま聴いておきたい歌手たち 第14回 

text:香原斗志(オペラ評論家)

ハングリー精神とテクニック

忘れている人、あるいは知らない人も多いのではないだろうか。2003年11月、新国立劇場で上演されたオッフェンバック《ホフマン物語》にエリーナ・ガランチャは出演し、ニクラウス/ミューズを歌っていた。もちろん、低域から広域までのなめらかな声と豊かな感情表出で強い印象を残したけれど、まだ圧倒的な歌唱とまでは言えなかった。

03年は、ガランチャがスターダムに乗った年だったのだ。ザルツブルク音楽祭で、ニコラウス・アーノンクール指揮のモーツァルト《皇帝ティートの慈悲》のアンニオ役を歌い、国際的なキャリアがスタートさせたのが、まさにこの年。翌04年から05年にかけては、ウィーン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭、エクサン・プロヴァンス音楽祭、パリ・オペラなどで、モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》のドラベッラを歌い、ウィーン国立歌劇場では、さらにマスネ《ウェルテル》のシャルロット(05年)、リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》のオクタヴィアン(06年)と続けて起用され、その評価を決定づけた。

C)Paul Schirnhofer&Gregor Hohenberg/DG

そんな滝登りのさなかのような時期に来日してくれたのだが、世界で一気に評価が高まってしまったがゆえに、その後の来日の機会が失われたのは残念というほかなかった。

もちろん、スターダムには乗るべくして乗っている。バルト三国の一角を占めるラトヴィアの首都リガで、父親は合唱指導者、母親は著名な歌手という音楽一家に生を享けたのは1976年。ただし、ラトヴィアでの暮らしは90年にソビエト連邦から独立するまで、日本でいえば終戦後しばらくの間のように楽ではなかったという。代わりに、飽食の国の住人が忘れてしまったハングリー精神が身についたようで、ひとたび歌手を志すや、リガの音楽院を皮切りにウィーンやアメリカでも学び、99年にフィンランドのヘルシンキにおける国際声楽コンクールで優勝。持ち前のすぐれた楽器を最大限に活かすテクニックを正しく習得できていたのだろう。短期間に、オペラ界の頂点を走るに至った。


どんな役にも極上の響きとやわらかさ

ガランチャの声は絹のように光沢があり、なめらかだ。輝かしく艶やかな響きはメゾソプラノとしては異例だろう。そして、卓越した技巧が求められる役から、抒情的な表現力が問われる役、ドラマティックな役まで軽々と歌いこなし、なにを歌おうと、どんなに強く表現しようと、極上の響きとやわらかさが失われない。そこに美しい舞台姿とエレガントな立ち居振る舞いが加わり、観る人の心を確実に奪う。

モーツァルトであれば、声を縦横に駆使し、細部まで少しもおろそかにせずに柔軟に歌い上げる。もっとも、キャリアの初期に得意にしていたロッシーニの諸役は、《セビリアの理髪師》のロジーナも《ラ・チェネレントラ》のアンジェリーナも、数年前から封印している。声が成熟して深みが増し、よりドラマティックな歌を自然に歌えるようになってきたからだ。

最近のレパートリーは、ドニゼッティ《ラ・ファヴォリータ》のレオノーラなどはまだ軽いほうで、サン=サーンス《サムソンとデリラ》のデリラ、ヴェルディ《ドン・カルロ》のエボリ公女、《アイーダ》のアムネリス、マスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》のサントゥッツァなど、かなりドラマティックな役に移っている。だが、幸い、どんなに劇的な役を歌おうとも、ガランチャの声から美しさとまろやかさは少しも失われない。むしろ、激しい感情や複雑な心理も光沢を増した深い響きで歌い上げられると、ほかのだれが歌うよりも説得力を帯びる。

それは、彼女の声が完璧なテクニックに支えられながら、望ましい発展を遂げた結果である。たとえば、ロッシーニが書いた歌唱至難の技巧的なフレーズを軽やかでスピーディに歌いあげる、隙のない制御力が身についていたからこそ、いまなにを歌っても、歌い崩すことがないばかりか、どんな細部もおろそかにならないニュアンス豊かな表現が可能になっている。

そして2020年5月には、ようやく17年ぶりの来日が実現し、リサイタルが行われる。
キャリアの頂点に立ったいま、彼女の芸術の十八番ばかりを凝縮して味わえるのはうれしい。

Information
エリーナ・ガランチャ(メゾソプラノ) リサイタル


2020.5/21(木)18:30 札幌文化芸術劇場 hitaru
問:キョードー札幌011-221-0144


5/23(土)13:30(完売)、5/28(木)19:00 すみだトリフォニーホール
問:テイト・チケットセンター03-6379-3144
 

5/25(月)19:00 フェスティバルホール
問:キョードーインフォメーション0570‐200‐888


5/27(水)18:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール
問:中京テレビ事業チケットセンター052-320-9933 

http://www.tate.jp/concert2020/elinaconcert2020.html


profile
香原斗志 (Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。